ジャパンカップ史 その6 92年 春の油壺(前編)
2008年 10月 02日
92年6月号では、3月に行われた「第3回ジャパンIORワントンカップ」の記事が出ている。
僕が書いていますが、正直言ってあんまり記憶がないです。ハイ。
当時はすでにIMSが出現していて、世界のIORは衰退の一途という状況にあったようだが、日本ではまだまだ健在。というか、この頃が盛りだったようだ。
ワントンカップといっても、優勝艇はレーティング調整してもワントンに収まらなかったものの「ほぼワントン」なら出場可で、スクラッチで競う、というイベントだったようだ。
なんだかインチキっぽいけれど、ワタシが自分で書いているので、事実でしょう。
しかし、こういう妥協は必要だと思う。ここで妥協しないと、レベルレースは続かない。
この「ほぼワントンカップ」は、チャンピオンシップというより、ジャパンカップに向けての走り合わせという色合いが強かった。
関西でも、91年には大阪ベイ・トナーズクラブが結成されている。
IOR衰退といっても、アドミラルズカップはこの頃まだワントン、ツートン、50ftの3クラスで行われており、IMSはIORに代わるグランプリクラスになり得ていない。
本気のレースは、レベルレース(着順勝負)でなければならない、という事だと思う。
当時のIMSはどういう意味合いがあったのか。
同じ6月号に、「ニュージーランドの鳥羽レース」という記事が出ている。これもワタシ書きました。
面白いのは、ここで当時のボクが、
「IMSには、ちょっとお遊びのレースボートというイメージをもっていた」
と書いている事。
ふーん、そうだったんだ。
で、ニュージーランド国内ではIORレーサーが存在しないため、IMSはキャンペーンボートと呼ばれてグランプリレーサーだった、とも書いてある。
その後、ニュージーランドでは、IMSもまったく受け入れられなかったわけですが……。ま、92年はそんな状況だったようです。
ボクは<サッシー>というグレッグ・エリオット設計のIMS40ft艇に乗せて貰っていた。
当時、オークランドではバリバリのレーサーだった。
オーナーのトム・マッコールは、ケンウッドカップで活躍した<ピースメーカー>や、ブルースファーのIOR返り咲きを成功させたワントナー<エクサドア>のオーナーでもある。<エクサドア>は、日本に売却され、そのままの艇名で走っていましたよね。
そうそう、活躍した外国艇を、艇名そのままで買ってくるというのも、この頃流行っていたのかな。
この<サッシー>、バリバリのレーサーといっても、乗っているのはわりと普通のおじさんだった。あるいは、業者系の方。アメリカズカップなどで活躍するプロセーラーは、国内のこの手のレギュラーレースにはほとんど出てこない。
ヨットスコードロン(RNZYS)からは、ユースプログラムの若いセーラーが派遣されて来ていた。
彼らはパピーズ(子犬ちゃん)と呼ばれていたが、そのうち1人はその後ブラックマジックに、もう1人は長距離系に進み、前回のボルボオーシャンレースでは、<パイレーツ・オブ・カリビアン>のワッチキャプテンを務めていた。出世したもんだなぁと感慨にふけると同時に、この頃のユースプログラムが、とてもうまく機能していたのが分かる。
サンディエゴでのルイビトンカップが始まったのがこの年の1月。
初チャレンジのニッポンは、善戦するも敗退。
5月9日からいよいよカップ本戦が始まる。
……と、こんな世相の中で行われたジャパンカップ。
90年、91年と、秋の油壺で行われ、台風の影響でスケジュールがガタガタになってしまっていた。正直いって、まともな選手権試合とはいいがたい結果に終わっている。
そこで、この年から、台風の心配がない春、ゴールデンウイークに行われる事になった。
ところが、ゴールデンウイークに行われていたミドルボート選手権は、当時最盛期を迎えていたわけで……。
(つづく)