ヨットの事を考える評議会


by Takatsuki_K
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<   2008年 10月 ( 10 )   > この月の画像一覧

これまで見てきたように、83年から始まったジャパンカップは、熱海から三浦~油壺に拠点を移してからは問題続きだった。

そして97年の10月。ジャパンカップは初めて相模湾を離れ西宮で開催された。
西宮開催に決定した経緯は知らない。たしか、「主催」という言葉を使わず、あえて「オーガナイズ:(社)関西ヨットクラブ」となっていて、「主催とどう違うんだろうね」なんて話していた覚えがある。
なんかいろいろ事情があったのでしょう。

それにしても、これまでのジャパンカップには関西から何隻もの参加があったからこそジャパンカップたり得た訳で、関西でやるなら関東からも遠征しなきゃ仁義がきれないってもんである。

ということで、関東からは、<カラス><エスメラルダ><ファウンデーション>の3艇が遠征。総勢29艇により非常に白熱したシリーズとなった。

トップを<アオバ><ドンキー>2艇の関西艇コレル45で競い、その後ろで関東勢の<カラス>と<エスメ>が大接戦を演じるという、結局はいつもの顔ぶれでの勝負だったんですけどね。

運営は極めてキッチリ行われていて、なんら口を挟む余地は無し。純粋にレースを楽しめた。

エスメはILC40で出場。
この艇、95年に進水しそのまま6月にブロックアイランド。7月にニューポートでIMSナショナル。8月にはニューヨークでIMSインターナショナルと転戦。
96年1月のキーウエストからはケン・リードが乗るようになり、7月にギリシャで行われたILC40の世界選手権に出場した。

これまで何度か書いたけれど、IMSがグランプリクラスとして成功できなかったのはILC40クラスがうまくいかなかったからだと思う。
なぜIMSではレベルレースができないのか。理由は前に書いた。

世界選手権は<ブラバ>が優勝。エスメは2位に終わったけれど、優勝のカップは直径が1.5mはあっただろうか。ギリシャ海軍の水兵4人がかりで担ぐようなしろもので、オーナーと、
「いやー、優勝しなくて良かったですよねぇ。あんなの持って帰れませんよ」
と冗談を言っていた。
これが、由緒正しいワントンカップだったらしい。

ギリシャの後、船は日本に持って帰り、秋に関東選手権を走り、そして西宮に遠征となったわけだ。

このあたりの話は、KAZI誌に『エスメラルダの20ヶ月』として詳しく書いた。
当時はすでにIMSもルールチートが進んでおり、ジャパンカップ時点では浮いたばかりの<カラス>のハンディキャップ値はたいへん美味しい物で、「これじゃオイラ達、勝てっこないわな」という状態だった。

もちろん、どんなにおいしいハンデを貰っていてもヘタッピが乗っていたんじゃ勝てないわけですけどね。

2007年のジャパンカップを報じているKAZI誌98年1月号で、現在のIRCの前身であるIR2000の記事が出ている。これ、今読むとなかなか面白いですよ。自分で書いておいてなんですが。古いKAZI誌引っ張り出してきて読む価値ありです。111ページから。


ロングは淡路島の方まで行って帰ってくるようなコースで、途中で風が無くなってコース短縮。コレル45は知らずに走り続けていたような覚えがあります。

以降、KYCではロングに見切りをつけて、インショアブイ周りのみのジャパンカップとし、毎回キッチリ運営しているというわけです。
で? 次回は新規定にしたがって西宮でもロング入れるんでしょうか?
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by Takatsuki_K | 2008-10-27 17:00 | ジャパンカップ史
95年はジャパンカップはお休み。
そして翌96年、ジャパンカップは3度目のゴールデンウイークの油壺開催となる。
結果としては、これが最後の油壺開催のジャパンカップとなった。

日程は、
1日目 インショア 1本
2日目 ショートオフショア(50マイル)
3日目 ショートディスタンス(23マイル)
4日目 インショア 2本
5日目 ロングオフショア(166マイル) 
6日目 ロングの続き 
7日目 インショア 1本 

と書くとかなりコッテリしたスケジュールだけど、ロングは風が無くて全艇フィニッシュできず。
最終日のインショアは前線の通過の為ノーレース。
7日間、大会前のインスペクションなどを入れれば9日間という長い日程のわりには、
レースは5本しか消化できていない。
これは単に天候のせいといえるのか?

オフショアレースをシリーズに入れようと思うと、スケジュールの進行は極端に悪くなる。オフショアレースといったって、風が強ければ中止や延期、コース短縮……なんてのが当たり前になり。しかし、順風が昼も夜も2日間に渡って吹き続ける事は少なく。となると「強風のため中止」か「無風で漂う」かどっちかになってしまう確立は高いワケ。

そのうえ、中途半端なショートディスタンスレースで1日をつぶしてしまうなんてもったいないことこのうえない。

風が弱くて全艇DNFに終わったロングオフショアに当てた2日間。インショアレースなら、3レースはこなせていたのではあるまいか?
ショートディスタンスの代わりにブイ周りやっていればこの日も2本。いや、この艇団なら3本だって可能。
となると、あと6レースも余計にできた勘定になる。

それでもロングをやるのか? というと、「ロング走らないでどこが外洋艇だ」という話になっており。
じゃあ、「ジャパンカップにはロングオフショアを入れなければならない」と決めたのなら、ロングオフショアが成立しなかった大会は無効って事になりますよね。強風が予想される時は、ロングはやらなくてもいいんですか? という、なんだか良く分からない事になっている。

……と、このあたりの主催者と参加者がヨットレースに求める要素のギャップは、今も続いているようで、まだまだ解消しそうもありません。
どっちがいいとか悪いとかの問題でもないし。


さて、この年、マム36クラスの全日本選手権も併催されている。
5艇のマム36クラスは先にスタートし、後から15艇の「その他の艇」がスタート。
でも、ジャパンカップはすべてをひっくるめた時間修正の上で総合1位に授与される。

このあたりの不公平さ。たとえば、ロングオフショアなんて、マム36がスタートしてからマークが流れたりなんかして、その他のクラスのスタートは40分後。この後急速に風速は落ち。これでも同じように時間修正して得点2倍……。と、どう考えても不公平なわけだけれど、別に誰からも抗議が出るでもなかったように記憶します。

今、これ書くために当時のKAZI読んでみたんだけど、ワタシも出場しているのですね。正直まったく覚えていないんですよね。そういえば出てたっけなぁ……って程度。

また、この時点で、日本にあるマム36は17艇。協会登録艇は14艇。で、初の全日本開催という事になるわけだけれど、なんで5艇しか出ていないのか?
記事にはちゃんと書いていないけれど、この日程に嫌気がさしたのではなかろうか、と勝手に推測いたします。

翌97年3月。西宮で第2回マム36全日本が行われ、こちらは9艇が出場。4日間で7レースを消化している。オフショアレースは組み入れられていない。

そして、この年(97年)の秋には、ジャパンカップは初の関西開催となる。

と、よく考えてみると、これまでジャパンカップはずっと相模湾で行われてきた。関西、中部の方々は、よくぞ毎年遠征して来てくれていたもんだと思います。
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by Takatsuki_K | 2008-10-23 20:49 | ジャパンカップ史
92年に「春の油壺開催」を強行し、ミドルボートとの関係がギクシャクしてしまったジャパンカップ。

93年はジャパンカップはお休み。

そして、94年は再び、コルムジャパンカップとして、ゴールデンウイークの油壺をベースとして行われた。

92年の「ボタンの掛け違い」を埋めるべく、この年はミドルボートとダブルエントリーが可能というところまではこぎつけたものの、ミドルボート勢からのエントリーは無し。
と、しっかりとボタンは掛け違ったままの状態だ。

この年、IMSクラスには18艇がエントリーした。
ワントン以上の大型艇はIMSの計測を受けてIMSクラスで出場しており、ワントン以下はミドルボートに出場しジャパンカップは無視。
よって、IORクラスには関東のワントンのみ9艇が出場し、ワントン全日本として併催された。

IMSはA、B、Cの3クラスに分けてそれぞれサイズを予め決めた上でエントリーを受け付けたわけだが、Bクラスは参加1艇。よってAクラスに統合されクラスは不成立。
Cクラスはわずか参加3艇。

ワタクシ、この参加3艇のIMS、Cクラスにエントリーし、全レーストップで最後のロングオフショアには出ずにブッチリギリの優勝を果たしたのであります。
これ、偉いのか偉くないのか? なんだかトホホなジャパンカップウイナーとなったわけ。

が、レースの方はミドルボート選手権で行っているので、強豪24艇が競う白熱した展開だった。だから「3艇しか出ていなかった」というイメージは無い。
ミドルボートの方はケン・リードが乗る<トレーサー>が優勝。ワタシらもケン・リードとは結構互角に戦ってはいたのものの、DSQがたたって5位に終わる。
んじゃ何か、ジャパンカップに勝っても日本一じゃないじゃん。という、ジャパンカップはそういうトホホなイベントに成り下がっていたのです。

ま、ジャパンカップにエントリーしてしまったワタシらが「空気読めていなかった」という事なのかも。

マム36が日本でデビューしたのもこの年。
ジャパンカップのIMSクラスで優勝している。

レースの方は、インショア4本、ロング、ショートと2本のオフショア、計6レースで行われているが、ロングレースをどうするか、でこの頃からもめている。多くの参加者は、ロングオフショアを楽しめていないのだ。

ミドルボートにはロングオフショアはないわけで、ボタンの掛け違いってのは、ここらの掛け違いもあるのかもしれない。

IOR&ワントン優勝の<からす>西村一広スキッパーが1994年7月号のジャパンカップ記事の中で書いたコラムが面白い。
------------------------------
ワントンオーナーズクラブから「ロングオフショアの代わりに別のインショアレースを行いたい」というレースコミティーの人格を無視するような、勇み足ともいえる提案があったようだが
  ↓
天候を見極めて
  ↓
ロングのコースを
135マイル→48マイルに短縮したのは
  ↓
世界のどのレースコミティーにひけをとらない決断だと思う
------------------------------
としている。

なんだか、最近でもこのての話はまだ続いているわけだけれど、これは日本だけの話ではない。
この年2月にニュージーランドで行われた「エア・ニュージーランドレガッタ」でも、420マイルのロングオフショアを前にしてゲイルウオーニングが出、レースは延期、そしてコース短縮をしている。

この時も、各艇のスキッパーを集めて意見を聞いていたが、中には「風が強くなりそうだから延期とか短縮とか、そんなオフショアレースは聞いたことがない」という人もいれば、はなから「マム36には420マイルなんて長すぎる」と言っていた人もいる。

インショアレースとオフショアレースは別々に進化しており、競技としての意味が異なってきているのに主催者側がそれに付いてこられていない、あるいは気が付いていない、という事なのではないかと思う。


この年、
ケンウッドカップでは、ILC40がデビュー、艇別優勝を飾っている。
ケンウッドカップでも、ロングオフショアのコースはどんどん短くなっているのは前にも書いた。

かといって、オフショアレース自体が廃れているわけではない。
個人的には、この夏、鳥羽レースでIMS総合優勝。

10月の関東選手権は、41隻集めて盛大に行われた。シャラクを始め、35~36ftのIMSの粒が揃い、大激戦だったのでよく覚えている。

この後、エスメラルダチームはトリップ36を売却するが、11月には日米親善マッチレース等を楽しくこなす。

翌95年の春は再びジャパンカップはお休みの年となるが、代わりにワントン全日本が行われ、これに出場。やっぱスクラッチレースは楽しいですなぁ。
で、これが世界最後のワントンのレースとなったようだ。出ておいてよかった。

そうそう、この時の優勝は<シーホーク>のバウワー・ベッキンですよ。今、VORでアフリカ沖を走ってます。

……と、個人的には、ジャパンカップがなくても全然困らない、というこの頃だった。
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by Takatsuki_K | 2008-10-21 19:37 | ジャパンカップ史

VOR 第1レグ スタート

……はとっくにしています。
11日にスペインのアリカンテという聞いたこともないような港をスタートした8艇は、アフリカ西岸を南下し第一レグの終点、ケープタウンに向かっています。

その距離6500マイル。

そして今日は5日め、

トップは、ケン・リードの<プーマ>。つーか、艇名はなんとかいったか。ま、プーマでいいや。
トーベン・グラエルの<エリクソン4号>。アンドレス・ルワンダーの<エリクソン3号>がその後を追っています。
とにかく大接戦で、今年のVOR(ボルボ・オーシャンレース)は面白くなりそうだぞぅ!!

公式ホームページも充実。
バーチャルスペクテイターもいいですよ。
登録無料。うちは回線遅いですが、バッチリ表示されています。
データ自体は軽いのかな? PCのグラフィック機能の方が重要みたい。

この冬……といっても、マレーシアに住んでいるので、冬もナニもないんですけどね……は楽しめそうです。

で、個人的に<プーマ>を応援していますので、そういう書き込みになります。
今回のエントリー状況では、
エリクソン=巨人
プーマ=阪神
という感じか?

ケン・リードといえば、レッドソックスの大ファンとしても有名……って、仲間内ではの話ですが。
ヤンキーズ=巨人
レッドソックス=阪神
みたいな感じらしいですね。アチラでは。


さて、現在そのレッドソックスはアメリカン・リーグのプレーオフ真っ最中なわけです。
14日にはホームゲームで4-13と敗れ3敗めを喫しもう後がない状況のレッドソックス。
海の上では、このあたりで<プーマ>が逆転してトップに立ったのはナニですよ。
ナニって何か? は意味不明ですが。

で、現在、試合中。ワールドシリーズに向け負けたら終わりですから、もう大変。

きっとケンは艇上で試合結果にハラハラしているはず。絶対に、艇上からインターネットで野球の試合追ってますよ。
こういうアクセスは、外部の援助にはならないのか? いや、どういう援助なのか? って話か?

レッドソックス敗退決定、なんてなったら、プーマのトップ維持は大丈夫か?
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by Takatsuki_K | 2008-10-17 09:58 | ボルボ・オーシャンレース
先週末の連休は、所用で新西宮へ。
ちょうどX35の全日本選手権が行われていました。
レガッタについての詳しいことはバルクヘッドマガジンに出ています。

別項で書いている『ジャパンカップ史』。いよいよマム36が登場する年になりました。そう、X35と似たようなサイズのワンデザインクラスですね。
IOR亡き後、期待されて登場しあっという間に艇数を増やしたのですが、その寿命は短かったです。

何故か? いい船だったのに、何故すぐにしぼんでしまったのか?

ワンデザインクラスは、舵を持たないオーナーにとっては所有欲を満足させる事ができないから。オーナーは単なるスポンサーみたいになってしまうから。……だろうと思われます。

その後、オーナーヘルム規定というアイデアが出て、それによって活発な大型ワンデザインクラスがいくつもできてきています。
X35もその一つ。

X35なら関東←→関西間の回航も楽だし、日本にはちょうど良いサイズです。

ワンデザインクラスの普及にはその艇種を販売するデーラーの協力(というか、販売力)が不可欠になりますが、これも問題なさそうです。

となると、問題は、アマチュアヘルム規定でしょう。
オーナーヘルムとアマチュアヘルムは全然違いますから。
farr40クラスは、ヘルムスマンの資格に対して非常に厳重な規定を設けています。これも、最初はアマチュアならokだったのですが、今はオーナーかそのファミリーじゃなければダメ。クラスの活動が活発になっていくに連れてそうした規定が必要になったのでしょう。
おかげで未だに熾烈な戦いが繰り広げられています。

このあたりのさじ加減は、各協会の腕の見せ所です。
今回の大会は、オーナーヘルムが征しましたが、今後、ISAFのGroup1に該当するうまいヘルムスマンを引っ張ってくるという作戦があたりまえになってしまうと、マム36で経験したのと同じ轍を踏む事にもなりかねません。
世界には、とんでもなく巧いアマチュアがいっぱいいますから。

いや、そういうのを認めないとなりたたないクラス(地域)もあるわけで、あるいは、日本では長期の遠征に参加できるGroup1のセーラーを見つける事ができない、なんて事もあるでしょう。さらには、Group3のセーラーといっても、日本のセールメーカーの社員とポール・ケイヤードが同じカテゴリーでいいのか? ってな事も考えなければならないし。

今の熱気を維持するためには、いろいろ工夫しないと。国際クラスといっても、日本独自の工夫が必要になるのかもしれません。

難しい問題です。
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by Takatsuki_K | 2008-10-16 08:57 | ヨットレースを考える
93年、ジャパンカップはお休み。

これは、参加艇が集まらなかった訳ではない。ゴールデンウイークにはビックボート選手権として、NORC関東支部が主催するシリーズレースが行われ、IOR9隻、IMS9隻が出場している。
前年、92年の11月には関西でコルムカップ関西選手権シリーズが行われており、ここでは関東からの5隻を含む12隻のワントンが集まって第4回ジャパンワントンカップが行われている。
日本のレース熱は冷めてしまっている訳ではない。むしろ過熱していて、競馬でいえば、走る気マンマンの鼻息荒い競走馬が、今か今かとゲートが開くのを待っているという感じ。

その最中で、ジャパンカップは行われなかった。

混迷のジャパンカップを尻目に、ミドルボート選手権には75艇がエントリーし活況を見せている。

この年からIMSクラスも採用され、IOR、IMS、CRの3クラスになったわけだが、IMSボートと言われる新艇の多くはCRクラスに出場。「バリバリの新艇に出てきて貰っては困る」という本来のクルーザーレーサーの声も聞かれるようになる。

いや、まあ、気持ちは分かります。

何故なのか? やはり、「IMS計測の手間と金」これにつきるのではなかろうか。CRの方も結構進化しており、なんだかCRで十分という気分も広がっていたようだ。
後に、CRはORC-Cに吸収されるわけだけど。

ハンディキャップシステムをいくつも併行して用いるよりも、オーナーヘルムであるとか、クルーのプロ規定を儲けるなど、乗り手の違いによるクラス分けを工夫すれば良かったのになぁ、と思う。
とはいっても、オーナーヘルムクラスがこの世に出てくるのはこの後なので、この時点では、ま、しかたないですね。

個人的にはトリップ36でIMSクラスに出場。全レーストップで完全優勝を飾る。……といっても、7隻しか出ていないんですけどね。
狙っている訳じゃないんだけど、こういう勝ち方が結構多いんですよ。

まあ、勝ち負けよりも、この頃はヨットの上でパソコンを使う事に楽しみも見いだしていた。ブロックアイランドでオッカム社のスタッフと一緒に乗り、彼がノートパソコンを持ち込みインスツルメンツと接続し、あんなこともこんなこともやっちゃうという……うーん、これは面白い。
と、日本に帰ってからは自分でもヨットにパソコン積み込んでいろいろいじくっておりました。DOS/Vなんてのが出てきたのもこの頃。

この年には、オークランド福岡ヨットレース。
翌年には、環太平洋ヨットレース、と、大きな国際外洋レースも行われ、結構参加艇は多く賑わっていました。ワタシは上海コースへ。ああ、あの時の興奮は今でも忘れられません。ヨットレースというより、上海の街の興奮ですけど。レースの方は、風が無くて暑くて、マイッタという記憶が。

一方、アドミラルズカップでは、この年が最後のIORとなる。
IORそのものが衰退していたため世界最高峰と言われたアドミラルズカップでも参加艇を集めるのが難しくなっていた。

50ft、2トン、1トンの3隻で1チームの国別対抗戦だが、そもそもIORボート自体がほとんど無くなっていて、2隻1チームでも良し、上位2艇のポイントで競う、とされた。

Nippon、Swing、Champosaの3艇からなる日本チームも奮闘。5位に入る。

この後、アドミはIMSを採用したわけだけれど、やはりどうしてもIMSはグランプリには馴染まなかったようで、乗り組むクルーの国籍もまちまちという事もなんだか国別対抗の意義がそがれる原因になったのかもしれず……と、アドミの混迷はさらに続く。

この年の鳥羽レースは、参加183艇中161艇がリタイアするという大荒れの展開に。
思い出しますよねぇ。
と同時に、参加183艇ですよ。バブルは終わり、世界的な景気低迷とか言われている訳ですが、ヨットレースはまだまだ熱気に包まれておりました。

10月には、BMW TOKYO CUP 関東外洋ヨット選手権シリーズが行われる。43艇出場。
記事には「ついにIMS艇のエントリーがIORを超えた」とある。
とはいえ、IOR Aクラスは8艇のワントナーが揃うなど、内容充実。ワントンオーナーズクラブが活発に活動していたのもこの頃。

相模湾では、STCと呼ばれる練習レースが毎月行われており、これがまたしっかりした運営でした。春のミドルボートと秋の関東選手権、そして夏は鳥羽レース。と、相模湾はジャパンカップが無くてもダイジョウブな充実ぶりだったのだ。
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by Takatsuki_K | 2008-10-10 14:43 | ジャパンカップ史
92年のコルムジャパンカップ。
この頃の、主催者と参加者の間のギクシャクはどうして起きていたのか?

16年も前の話で、オマケにまだNORCの時代な訳だから今更な話ではあるし、どこかに問題を起こしている中心人物がいるというなら解決もしようが、別に誰が悪いという訳でもないと思うので、こりゃなかなか難しい話なのです。

この後もギクシャクは続き、1998年には、JYAとNORCが組織統合に関する基本合意書を承認し、翌99年4月1日にはJSAFが発足するわけだけれど、92年に起きたグアムレースでの遭難事故と、その後の損害賠償裁判なんてのもあり、この間の5~6年は、NORC自体がかなり混乱していたのかもしれない。

その混乱の中で、セーラーは協会の事を、協会はセーラーの事を、お互いに理解し合えていなかったんだろうと思う。

いやまあ、協会はセーラーの事を理解するべきだし、さらに協会はもっともっと情報を公開して会員の理解を求めても良かったのでは無いかとは思う。

そんな乖離感から、会員側からすると当時ジャパンカップへの期待はほとんど無かったのではなかろうか? 隔年開催となって、「93年はジャパンカップ無し」と言われても、別段ガッカリした記憶もない。


ここで、ちょっと92年から94年に至る、日本と世界のヨットレース事情を見ていきたい。
どうもこのころ、日本のセーラーは、「ジャパンカップが無くても困らない」という状況にいたようにも思えるからだ。

92年、アメリカズカップの予選ルイビトンカップが始まり、日本も初参戦。テレビでバッチリ放映されていた。
アメリカズカップは米国アメリカキューブがイルモロ・デ・ベネチアを下して防衛に成功する。
バルセロナ五輪では、女子470クラスで、日本セーリング界に初のメダルをもたらす。
……でもなんだかマスコミの扱いは少なく、不憫であった。

8月にはメリットカップが行われ、国内でもちょっとしたマッチレースブームになる。
メリットカップは見るレースだけれど、参加するマッチレースとしても、鳥羽カップマッチレースなんてのがあった。

海外では、IOR50ftのワールドカップまだまだ続いていて、この年、日本艇チャンポサが初優勝している。

年表的にはバブル終焉のはずだけど、実際にはまだまだバブル景気は続いていたように思う。

ボク個人としては、6月に進水したトリップ36で、米国東海岸のブロックアイランドレースウイークに出場。エスメラルダチームが本格的に活動を始めたのはこの年から。
ブロックアイランドでは結構良い成績だったので、気持ちよく帰国。

夏にはケンウッドカップに取材に行っている。

記事には「世界的な不況だ」と書いてあり、ケンウッドカップの参加艇数もIOR、IMSそれぞれ18隻づつ合わせて36隻。最盛期の半分に減ってしまったが、2トンカップも併催されており、レースそのものは非常に中身の濃いものであった。

特にここで、IMS艇の艇速に、ボクは驚いている。
IOR、IMSの順でスタートするも、IMS艇がIOR艇に追いついてしまうのだ。

これまでのIMS艇のイメージは、速いことは速いけど、上りはやっぱりIOR、という感じだった。
それがこの頃から逆転し、IMSの方が速い──とこれは同じ全長で、あるいは同じ値段で、という意味でだと思うけど、確かにこの時ハワイで、ボクはそう感じたようだ。

自分では、何の因果か、73ftのケッチに乗ってこのレースに出ているワケですが……。

国内ではこの年、エスメチームはJ24の全日本を目指して猛練習に明け暮れていた。練習嫌いのエスメチームなので、この時の猛練習は今でもよーく覚えている。

ボクにとっての始めてのJ24クラス。11月に博多で行われた全日本選手権は45艇を集めかなり面白かった。
エスメラルダは17位に終わる。凡庸なようだけど、これでもものすごく楽しめるのは、ワンデザインだからだと思う。
ちなみに、この年、J24世界選手権の優勝はケン・リード。2位がクリス・ラーソン、3位ジム・ブレディー、4位テリー・ハッチンソン。すげーな、このフリート!!、

この年の秋には、BMW TOKYO CUP 関東外洋ヨット選手権も行われているが、こちらも台風の為「天気は良いのにノーレース」で中途半端な事になってしまっている。

明けて93年。
ジャパンカップはお休みだけれど、ゴールデンウイークには関東支部主催のビックボート選手権が行われた。
個人的には、トリップ36でミドルボート選手権に出場。ミドルボート選手権もこの年からIMSが採用される。

ちょっと長くなったので、この項、続く。
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by Takatsuki_K | 2008-10-07 23:23 | ジャパンカップ史
92年のジャパンカップ、正式名称は、
「CORUM JAPAN CUP INTERANTIONAL OFFSHORE SERIES 1992」高級腕時計メーカーコルム社がスポンサーに付き、シャンパンマム・ワールドカップに含まれる世界イベントとして開催される。

すでにIMSクラス(参加7艇)も儲けられているが、やはりメインはIORクラス。
A、B、2クラスに分かれており、Bクラスの上限をレーティング30.55ft、つまりワントンの上限に設定してある。
そのBクラスに集まったワントナーが8隻。(関東5隻、関西3隻)
ジャパンカップではハンディキャップレースだが、同時にスクラッチでも集計し、これを「ワントン太平洋選手権」としている。

Aクラスも2トナーを中心に中身は充実。(関西3隻、関東2隻、フランス1隻)
フランス艇は、昨年のアドミラルズカップの優勝チームだ。

以上、IMSも含めて参加21隻。
このうち、9隻は、この年の夏ハワイで行われたケンウッドカップに出場している。

おそらく、出場艇のレベルはジャパンカップ史の中でもピークを迎えていたのではないかと思われる。

で、大会はどんな雰囲気だったのか。
ボク自身は、同時期に同じ場所で行われていたミドルボート選手権の方の取材をしていたので、詳しくは見ていない。

が、KAZIの記事を見ると、国際ヨッティングジャーナリストのマルコム・マッキーグという人が、
「ジャパンカップに期すること」
と題して、事務サイドの問題点をいくつか指摘している。

○日程発表の遅れ
 秋から春へ移動するという決定が遅かった
○参加艇が複数の泊地に散らばったこと、
○成績発表を拒んだこと
 これを「国際プレスは決して許さない」と大変手厳しい。
○海外からの参加が少ない
 これは、チャイナシーレースと日程が重なった事によるとしている

等、1ページに渡って書いていおり、最後は、
「現時点ではジャパンカップはどちらかというと、ひそかに行われているといった感があるが、これは変えていかなければならない」
と結んでいる。

また、KAZIの編集長も1ページまるまる使って、
「さまざまな教訓を得た、ジャパンカップ」という記事を載せている。
ここでは、
○昨秋に続き春の開催ということで、準備期間が短い
○ワントン太平洋選手権の知らせは、大会2~3週間前に知らされたため準備が間に合わなかった艇もあった。
○レース数についても艇長会議でもめる
等の問題点をあげ、
「もっともっと主催者と参加者のコミュニケーションを図り、国際レースとしても相応しい、日本独自のレース文化を作り上げていく時期にさしかかっているのではないだろうか。
(中略)
ジャパンカップは、主催者、参加者ともに様々な教訓を得て、国際レースとしての本格的な、大きな一歩を刻んだ」
と結ばれている。

カドがたたないようには書かれているが、普通、こんなことでページを割きませんよ。
参加者と主催者の間で、かなりギクシャクしたものがあったものと思われる。
自分自身でこれまでの何回かのジャパンカップに出場していたので、このギクシャクを想像できる。

面白いのは、マッキーグ氏が、
日本ではIORボートが未だ健在であることを「励みになる」と書いていること。
この頃すでにIMS艇はルールチートが始まっており、「IORが20年かけてやったことをIMSは2年で行おうとしている」と嘆いている。

と、まあこれは置いておいて、肝心のレースの方は、

インショア 3本
ショートオフショア(155M) 1本
ロングオフショア (216M) 1本
の計5本で行われた。

得点は、ショートオフショア1.5倍。ロングが2倍だから、合わせて3.5倍。インショアは3本しかないので、ロングの方が得点配分が大きい事になる。

そして、ショートオフショアでは3艇しかフィニッシュできず、ここで勝負はほば決定してしまったようだ。

Aクラス優勝 <コルムルビー>
Bクラス優勝 <チャチャII>
IMSクラス優勝 <ドリームピック>

ワタシの記憶では、この頃、特にワントン勢はロングを楽しんではいなかったと思う。
そんなあたりも、主催者側と参加者の間のギクシャクになっているのではないかとも思う。

そして、この年起きた決定的な問題は、例年この時期にこの海域で行われていたミドルボート選手権との連絡がきちんとできていないのに、ジャパンカップを強行したことにある。

ここでの細かな経緯は知らない。後年、ジャパンカップ関係者から、
「この時にボタンの掛け違いがあった」
と聞いている。
ミドルの関係者は、
「我々は閉め出された」
と憤慨している。

当時のジャパンカップには、主催者と出場艇の間に、どうにも説明しにくいような垣根があったように思う。これがギクシャクの根本で、対して、ミドルボートの方は、大会会長以下各役員は自ら艇に乗り込んでレースに出場している。参加者=主催者だ。
ミドルボート選手権は、自分達で作り上げた自分たちのレガッタという自負がある。

と考えると、ジャパンカップの主催者とミドルボートの主催者(ミドルボート・オーナーズクラブ)は、「どちらも主催者という立場」というより、ミドルボートの関係者はジャパンカップの参加者という立場にいたのかもしれない。だから、話し合いがうまくいかなかったのかもしれない。

とにもかくにも、
こうして、ジャパンカップは、前年までは出場していた、1/2トン、3/4トン勢に、完全にそっぽを向かれてしまった事になる。


この頃のボクは、ジャーナリストとしての目でレガッタを見ていなかった。大会に出場する選手の目でしか、記事を書けていなかったと思う。
この頃もっときちんと問題点を指摘していたらどうなったか?

この年から、ジャパンカップは隔年開催となり、93年はお休み。
94年までは十分時間があったので、ミドルボートとダブルエントリー可能という所まではこぎ着けたが、結局関東のミドルクラスの艇はジャパンカップの方には出場していない。
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by Takatsuki_K | 2008-10-05 21:40 | ジャパンカップ史
92年からは手元にKAZI誌があるから、詳しく書ける。
92年6月号では、3月に行われた「第3回ジャパンIORワントンカップ」の記事が出ている。
僕が書いていますが、正直言ってあんまり記憶がないです。ハイ。

当時はすでにIMSが出現していて、世界のIORは衰退の一途という状況にあったようだが、日本ではまだまだ健在。というか、この頃が盛りだったようだ。

ワントンカップといっても、優勝艇はレーティング調整してもワントンに収まらなかったものの「ほぼワントン」なら出場可で、スクラッチで競う、というイベントだったようだ。

なんだかインチキっぽいけれど、ワタシが自分で書いているので、事実でしょう。
しかし、こういう妥協は必要だと思う。ここで妥協しないと、レベルレースは続かない。
この「ほぼワントンカップ」は、チャンピオンシップというより、ジャパンカップに向けての走り合わせという色合いが強かった。

関西でも、91年には大阪ベイ・トナーズクラブが結成されている。
IOR衰退といっても、アドミラルズカップはこの頃まだワントン、ツートン、50ftの3クラスで行われており、IMSはIORに代わるグランプリクラスになり得ていない。
本気のレースは、レベルレース(着順勝負)でなければならない、という事だと思う。

当時のIMSはどういう意味合いがあったのか。
同じ6月号に、「ニュージーランドの鳥羽レース」という記事が出ている。これもワタシ書きました。
面白いのは、ここで当時のボクが、
「IMSには、ちょっとお遊びのレースボートというイメージをもっていた」
と書いている事。
ふーん、そうだったんだ。

で、ニュージーランド国内ではIORレーサーが存在しないため、IMSはキャンペーンボートと呼ばれてグランプリレーサーだった、とも書いてある。

その後、ニュージーランドでは、IMSもまったく受け入れられなかったわけですが……。ま、92年はそんな状況だったようです。

ボクは<サッシー>というグレッグ・エリオット設計のIMS40ft艇に乗せて貰っていた。
当時、オークランドではバリバリのレーサーだった。
オーナーのトム・マッコールは、ケンウッドカップで活躍した<ピースメーカー>や、ブルースファーのIOR返り咲きを成功させたワントナー<エクサドア>のオーナーでもある。<エクサドア>は、日本に売却され、そのままの艇名で走っていましたよね。
そうそう、活躍した外国艇を、艇名そのままで買ってくるというのも、この頃流行っていたのかな。

この<サッシー>、バリバリのレーサーといっても、乗っているのはわりと普通のおじさんだった。あるいは、業者系の方。アメリカズカップなどで活躍するプロセーラーは、国内のこの手のレギュラーレースにはほとんど出てこない。

ヨットスコードロン(RNZYS)からは、ユースプログラムの若いセーラーが派遣されて来ていた。
彼らはパピーズ(子犬ちゃん)と呼ばれていたが、そのうち1人はその後ブラックマジックに、もう1人は長距離系に進み、前回のボルボオーシャンレースでは、<パイレーツ・オブ・カリビアン>のワッチキャプテンを務めていた。出世したもんだなぁと感慨にふけると同時に、この頃のユースプログラムが、とてもうまく機能していたのが分かる。

サンディエゴでのルイビトンカップが始まったのがこの年の1月。
初チャレンジのニッポンは、善戦するも敗退。
5月9日からいよいよカップ本戦が始まる。

……と、こんな世相の中で行われたジャパンカップ。

90年、91年と、秋の油壺で行われ、台風の影響でスケジュールがガタガタになってしまっていた。正直いって、まともな選手権試合とはいいがたい結果に終わっている。
そこで、この年から、台風の心配がない春、ゴールデンウイークに行われる事になった。

ところが、ゴールデンウイークに行われていたミドルボート選手権は、当時最盛期を迎えていたわけで……。
(つづく)
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by Takatsuki_K | 2008-10-02 09:29 | ジャパンカップ史
90年の冬、<エスメラルダ>でグアムレースに出る。この後、2007年まで続いた、エスメチームとの最初の出合いである。
当時の<エスメ>はJ33です。J33でグアムレースですよ。

スタート海面を流していたら、別の大型艇に乗った庄崎さんから、
「その船でダイジョウブか?」
と、真顔で言われた。
いや、確かに。J33っていったらインショアスポーツボートですよね。

まあ、IORボートに比べたら、マストも太いし頑丈そうだ。当時のボクは、やたらに長距離航海をしていたから、グアムなんてすぐそこというイメージだった。もう夜通しスピン揚げてプレーニングしてましたよ。
当時、初採用されたIMSクラスで出場していたと思う。2位だったはず。

この翌年、<マリンマリン>と<たか>の遭難事故が起きる訳で、その後だったら、J33では出ていないだろう、とも思う。

ジャパンカップもその流れで、エスメラルダチームで出場。
といっても艇名は別で、89年とは別の中古高井ワントナーだ。

この頃のIORボートはもうものすごい事になっていて、この船なんかランナーを巻くと船がたわんでスライドハッチが開かなくなる。
「セール出すからランナー緩めて」
なんて会話をしていた。

ブルース・ファー全盛だった訳だが、あえて別のデザイナーに設計を依頼するというのもオーナーの楽しみの一つなんだろう。で、まったく走らない、なんてのも、「よーし、じゃあ造り替えるか」というモチベーションに繋がるのかもしれない。お金かかります。

この年も、台風の影響で、スケジュールはガタガタになった。
僕らとしては、船は走らないし、どーでもいいやと思ったけれど、本気の人達や海外からの遠征組はかわいそうだった。

この頃には、日本のセーラーも広く世界のレースを知り、経験を積んでいたわけで、運営側がそれに追いついて来られない……という状況にあったと思う。

この年、ジャパンカップ後に三浦でIORフィフティーのサーキットが行われた。
世界の強豪。本気の人達によるサーキットの最終戦だ。

僕は運営に携わっていた。
下見の為に、この年の春マイアミ大会に行かせてもらった。宣伝用に主催者がKAZIのページを買い、そこに原稿を書いたのが、僕とKAZIとの長いおつきあいの発端になる。

それにつけても、バブリーな大会だったなぁ。良い意味で、ですよ。

ちなみに、バブル景気というと、1987年から1991年頃の事をいうようだ。
株価の最高値が89年末。景気も90年10月をピークに低下傾向にあり、地価のピークが91年の秋。
と考えると、このフィフティーサーキット三浦大会こそ、バブル景気最後の打ち上げ花火だったのかもしれない。
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by Takatsuki_K | 2008-10-01 09:04 | ジャパンカップ史