その7 92年 春の油壺(後編)
2008年 10月 05日
「CORUM JAPAN CUP INTERANTIONAL OFFSHORE SERIES 1992」高級腕時計メーカーコルム社がスポンサーに付き、シャンパンマム・ワールドカップに含まれる世界イベントとして開催される。
すでにIMSクラス(参加7艇)も儲けられているが、やはりメインはIORクラス。
A、B、2クラスに分かれており、Bクラスの上限をレーティング30.55ft、つまりワントンの上限に設定してある。
そのBクラスに集まったワントナーが8隻。(関東5隻、関西3隻)
ジャパンカップではハンディキャップレースだが、同時にスクラッチでも集計し、これを「ワントン太平洋選手権」としている。
Aクラスも2トナーを中心に中身は充実。(関西3隻、関東2隻、フランス1隻)
フランス艇は、昨年のアドミラルズカップの優勝チームだ。
以上、IMSも含めて参加21隻。
このうち、9隻は、この年の夏ハワイで行われたケンウッドカップに出場している。
おそらく、出場艇のレベルはジャパンカップ史の中でもピークを迎えていたのではないかと思われる。
で、大会はどんな雰囲気だったのか。
ボク自身は、同時期に同じ場所で行われていたミドルボート選手権の方の取材をしていたので、詳しくは見ていない。
が、KAZIの記事を見ると、国際ヨッティングジャーナリストのマルコム・マッキーグという人が、
「ジャパンカップに期すること」
と題して、事務サイドの問題点をいくつか指摘している。
○日程発表の遅れ
秋から春へ移動するという決定が遅かった
○参加艇が複数の泊地に散らばったこと、
○成績発表を拒んだこと
これを「国際プレスは決して許さない」と大変手厳しい。
○海外からの参加が少ない
これは、チャイナシーレースと日程が重なった事によるとしている
等、1ページに渡って書いていおり、最後は、
「現時点ではジャパンカップはどちらかというと、ひそかに行われているといった感があるが、これは変えていかなければならない」
と結んでいる。
また、KAZIの編集長も1ページまるまる使って、
「さまざまな教訓を得た、ジャパンカップ」という記事を載せている。
ここでは、
○昨秋に続き春の開催ということで、準備期間が短い
○ワントン太平洋選手権の知らせは、大会2~3週間前に知らされたため準備が間に合わなかった艇もあった。
○レース数についても艇長会議でもめる
等の問題点をあげ、
「もっともっと主催者と参加者のコミュニケーションを図り、国際レースとしても相応しい、日本独自のレース文化を作り上げていく時期にさしかかっているのではないだろうか。
(中略)
ジャパンカップは、主催者、参加者ともに様々な教訓を得て、国際レースとしての本格的な、大きな一歩を刻んだ」
と結ばれている。
カドがたたないようには書かれているが、普通、こんなことでページを割きませんよ。
参加者と主催者の間で、かなりギクシャクしたものがあったものと思われる。
自分自身でこれまでの何回かのジャパンカップに出場していたので、このギクシャクを想像できる。
面白いのは、マッキーグ氏が、
日本ではIORボートが未だ健在であることを「励みになる」と書いていること。
この頃すでにIMS艇はルールチートが始まっており、「IORが20年かけてやったことをIMSは2年で行おうとしている」と嘆いている。
と、まあこれは置いておいて、肝心のレースの方は、
インショア 3本
ショートオフショア(155M) 1本
ロングオフショア (216M) 1本
の計5本で行われた。
得点は、ショートオフショア1.5倍。ロングが2倍だから、合わせて3.5倍。インショアは3本しかないので、ロングの方が得点配分が大きい事になる。
そして、ショートオフショアでは3艇しかフィニッシュできず、ここで勝負はほば決定してしまったようだ。
Aクラス優勝 <コルムルビー>
Bクラス優勝 <チャチャII>
IMSクラス優勝 <ドリームピック>
ワタシの記憶では、この頃、特にワントン勢はロングを楽しんではいなかったと思う。
そんなあたりも、主催者側と参加者の間のギクシャクになっているのではないかとも思う。
そして、この年起きた決定的な問題は、例年この時期にこの海域で行われていたミドルボート選手権との連絡がきちんとできていないのに、ジャパンカップを強行したことにある。
ここでの細かな経緯は知らない。後年、ジャパンカップ関係者から、
「この時にボタンの掛け違いがあった」
と聞いている。
ミドルの関係者は、
「我々は閉め出された」
と憤慨している。
当時のジャパンカップには、主催者と出場艇の間に、どうにも説明しにくいような垣根があったように思う。これがギクシャクの根本で、対して、ミドルボートの方は、大会会長以下各役員は自ら艇に乗り込んでレースに出場している。参加者=主催者だ。
ミドルボート選手権は、自分達で作り上げた自分たちのレガッタという自負がある。
と考えると、ジャパンカップの主催者とミドルボートの主催者(ミドルボート・オーナーズクラブ)は、「どちらも主催者という立場」というより、ミドルボートの関係者はジャパンカップの参加者という立場にいたのかもしれない。だから、話し合いがうまくいかなかったのかもしれない。
とにもかくにも、
こうして、ジャパンカップは、前年までは出場していた、1/2トン、3/4トン勢に、完全にそっぽを向かれてしまった事になる。
この頃のボクは、ジャーナリストとしての目でレガッタを見ていなかった。大会に出場する選手の目でしか、記事を書けていなかったと思う。
この頃もっときちんと問題点を指摘していたらどうなったか?
この年から、ジャパンカップは隔年開催となり、93年はお休み。
94年までは十分時間があったので、ミドルボートとダブルエントリー可能という所まではこぎ着けたが、結局関東のミドルクラスの艇はジャパンカップの方には出場していない。